翻訳家の吉村皓一様から「中国のエニグマと見果てぬ夢」の書評が届きました。

原文のまま、掲載させていただきます。

———

チュウ・シャオロン著「中国のエニグマと見果てぬ夢」

鈴木康雄/美山弘樹共訳 七草書房

 

帯にあるとおり、本書は現代中国を舞台に、中国人作家が英語で書き下した話題作「陳警部事件シリーズ」の邦訳版である。主人公の陳操は上海市党委員会委員、上海警察本部の党委員会副書記および主任警部(恐らく日本の警察の階級では警視正)であり、上海作家協会に所属する詩人でもある。党の最高幹部、上海経済界、マスコミにも個人的に有力なコネクションを持っており党エリートであるが、その心情は義を重んじる警察官であり、持ち前の情の厚さと義で個人的に独自の人脈を築いている一匹狼である。

「エニグマ」はヒットラーが作らせた暗号機の名前で、コンピュータの元祖のようなものであるが、作者は現代中国そのものを「エニグマ」に見立ててこの題名を付けたのであろう。

主人公の陳主任警部が党幹部の汚職にまつわる殺人事件を捜査するストーリーは展開が早く、ソーシャルネットワークやハッカーなど現代中国に欠かせない要素、さらには使い捨て携帯電話などの現代ならではの小道具を使っていて面白い。また、中国料理グルメへのサービスもあり、中国富裕層のライフスタイルも垣間見ることができる。

ミステリーとしては、周が死んだ時に使われたロープの出所を調べた様子が無いことや実行犯らしい男を追跡した様子が無いこと、魏刑事を轢いたSUVに関しては、慢性的に渋滞している道路上で駐車を目撃されている場所から現場までが100mという近距離で大の男を即死させる速度まで加速することが可能とは思えないことなど、詰めが甘いと感じる部分はあるが全体的にはTVの刑事もの風の展開で一気に読み切れる。

主人公が詩人であることから随所に挿入されている中国詩がストーリーの持つ意味を示唆している。これらは、中国を代表する陸游、杜甫、欧陽脩、孟郊、魯迅、杜牧、王陽明、蘇軾(東破)などの詩である。原作は英文であるが、この七草書房版では中国語原文をも踏まえながら、日本語の韻を踏まない自由詩の形で書き、韻や形式よりも意味に重点を置いている。しかし、原詩の美しさを残そうとしており、翻訳者と編集者の苦労の跡が読み取れる。

既存組織を守る事が安定でありそれが民衆の安心につながるとの党中央の考え方で固められている現代中国に氾濫する、長期安定政権ならではの腐敗と堕落に戦いを挑む主人公ではあるが、自らも地位は享受しているという自己矛盾にも気付いている。只縁身在此山中―山の中に居ては山の姿は見えないのである。

ストーリーも面白く、現代中国を垣間見ることができてお薦めである。

 

吉村皓一(翻訳家・日本ペンクラブ会員)