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「ひなた ガン爺の雑記帳から」 10章 患者道(後書き)

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本書は主人公のガンさんが亡くなった2017年12月8日の直後から準備を開始し、できれば7回忌に当たる2023年の師走に上梓したいと考えていた。だが、その年の春、当方の濾胞性リンパ腫が再発したため、その願いは叶わなかった。

本書の1章と3章で触れたが、私のリンパ腫の最初の発症は、ガンさんが亡くなる1年前(2016年)で、今回で4度目の発症であった。この病気は再発を繰り返し、最初の発症時のころは、統計的には3年間の生存率が20パーセントと言われていた難病である。

今回は4回目の発症ということもあり、CAR-T療法という最新療法を受けることになった。これは自身の体内から免疫細胞(白血球の一種であるT細胞)を取り出し、それにがん細胞を攻撃する遺伝子を導入してCARと呼ばれる特殊なたんぱく質を作り出して改変・培養したもの(「キムリア」)を再度、体内に入れる療法である。この療法は、数年前に国の認可が下りたもので、東大病院としても、まだ珍しいようであった。

2023年10月19日の午後、私の病室で担当の野上綾沙看護師が「キムリア」投与の準備を始めると、もう一人の看護師がやって来て、「スマホで、記録を撮らせていただくことになっておりますが、よろしいでしょうか?」と、私に確認した。

その後、担当医の安永愛子医師がやって来て、高さ80センチほどの重厚な金属の容器から、かなりの時間をかけて「キムリア」の入った小さなビニール袋を取り出し、それを点滴台から私の右側の頸静脈に挿入されたカテーテルを通して体内に投入する際には、さらに数人の医師・看護師らが病室に集まってきて、興味深げに見守っていた。

昨年の5月中旬の検査入院から始まり、CAR—T療法の準備処置としての化学療法R—ESHAP(3コース)および本番のCAR-T療法を経て11月中旬に退院するまで、6回の入退院を繰り返し、自宅待機期間を含めると、延べ7ヶ月におよぶ闘病生活となった。

今回、私は、ある決意を秘めて、この治療に臨んだ。

ガンさんは幼いころ、薬が手ばなされないほどの病弱な体であり、それが剣道を始めた動機であったようだが、その病弱な体質を克服して、見事、剣道5段の腕前になった。

一方、私は東大病院にお世話になり始めて、もう7年になる。

「よし、今回の入院で、“患者道”なるものを見極めてやろう!」

そんな決意を、最初の検査入院からR-ESHAP化学療法(3コース)までの5回の入院生活の担当に就いてくれた大薗理恵看護師に話したら、彼女は、こう言ってくれた。

「では、私も、“看護師道”の得道を目指して、頑張ります!」

しかし、長期の入院生活で、今回もそれなりの修行は積んだが、人生の「四苦」の総仕上げとなる「老苦」と「病苦」を相手にする“患者道”は、やはり奥が深く、私の場合、ガンさんの剣道5段のレベルには、まだまだ遠く及ばないと実感している。

本書は、一応、小説の形をとっているが、9割は事実である。それは、読者に楽しんでもらうよりも、できるかぎりガンさんのありのままの姿を後世に残すことを目的としたからである。

通常、人は歴史に名を残したり、マスコミが騒ぐ人物については興味を示すが、無名の庶民への関心は低い。しかし、無名でありながらも、少し光を当ててみると、その生き様に、人間としての大きな価値や意外な真実が見えてくる人がいる。ガンさんは、そんな人である。

本作品に登場するバートン・ワトソン博士(1925-2017)は、3章で述べたように、司馬遷の『史記』を世界で初めて本格的に英訳し、中国・日本の古典作品の研究と英訳作業をとおし、それらの真髄を西洋に紹介する上で多大な貢献をした学者である。ガンさんは、そうした人とも気さくに交流し、長年、仕事でお世話になった私などよりも、はるかに深く心が通じ合った、不思議な人柄の持ち主であった。

そんな主人公の人柄を示すものとして、本作品に含めなかった、ささやかな余話を一つ記しておきたい。

それは70年安保の年で、私は大阪外国語大学(英語学科)の4年生であった。

構内ではゲバ棒を持った革マル派らが暴れまわり、教室の窓ガラスはほとんど割られてしまい、およそ勉学に励む雰囲気ではなかった。

そのころ、私は、ある仏教団体に所属し、その学内組織の活動の一環として学生運動にも参画していた。

その年の夏、その団体の関連機関(世界語学センター)が主催する第1回「海外サマーセミナー」が開催されることになった。会場はアメリカのUCLA(カリフォルニア大学ロスアンゼルス校)である。

私は英語を専門にしている学生であったから、在学中に一度は海外に行き、本場の英語に接してみたい願望はあった。だが、参加費用の30万円は、当時の貧しい我が家の経済事情では、到底、無理な金額である。ちなみに、当時、私の通っていた大学の授業料は、年間1万2千円であった。

この話を、たまたま会った姉(作品ではシゲで登場)に、軽い気持ちで、打ち明けた。もちろん、何かを期待していたわけでなかったが、姉から意外な反応が返ってきた。そのお金を工面できるよう努力してみるというのだ。そして、数日後、なんと、その金額の入った白封筒を私に渡してくれたである。

姉は、ちょうどその1年前の1969年の秋にガンさんと結婚したばかりであった。彼は私と同年齢の1947年(亥年)生まれであるから、大阪府警に就職して数年後のころである。この金額は、おそらく、彼の給料の数倍の額だったのではないだろうか。

(私は翌年、この団体の職員に採用されたが、初任給は4万円ほどであったと記憶している。)

そのころ、私とガンさんは、まだ交流はなく、よく知らない間柄であった。彼は、そんな姉の“我が儘”ともいえる願いを、すんなりと聞き入れたのである。

今、改めて振り返ると、このサマーセミナーへの参加は、私のその後の人生にとって、様々な面で極めて大きな意味があった。

上述のように、当時、私は仏教団体に所属していて、夜遅くまで活動することが多く、どうしても午前の早い授業は欠席しがちであった。ファリシーというアメリカ人による英会話の授業は、その一つであった。

新学年の開始以来、欠席が続いていて、もう、この授業の単位は取れないだろうと半分諦めていた。だが、この単位を落とせば、単位数がギリギリ状態となり、もし、もう一つ別な科目で不合格点が付けば、卒業できなくなってしまう。だから、この単位を取っておくことが重要かつ安全だと感じて、なんとかならないものかと、その対策を考えた。

当時、海外から帰国の際、洋酒は2本まで無税だったので、私も、ウイスキーのジョニ黒(ジョニーウォーカーの黒ラベル)とブランデーのナポレオンを各1本、土産に購入していた。

ふと、一つのアイデアが心に浮かんだのである。

「そうだ、このジョニ黒を持って、ファリシー先生に頼み込めば、もしかしたら後期から授業を受けさせてもろえるのではないか!」

私は元来、気弱な性分で、普通なら、そんな大胆な発想は出てこないのだが、UCLAのサマーセミナーに参加して気分が高揚していたこともあり、さらに手元に洋酒があったので、ちょっと強気になれたのだろう。

早速、恐る恐る大学のすぐ近くにある教授の住居を訪ねた。

教授は笑顔で応対してくれ、楽しい会話もでき、その場で、後期からの授業への出席を快諾してくれたのである。

この英会話の単位を取得できたことが、いかに貴重であったかは、卒業の間際に判明した。実は、自分としては得意と思い、授業にも比較的熱心に出席していた哲学科目の単位が、取れなかったのである。

それはベルクソンの著作を教材とした授業であったが、最後に筆記試験があり、その哲学科の教授は、なぜか及第点をくれなかったのだ。だから、もしファリシー教授の科目の単位が取れていなかったら、この哲学科目の不合格が致命傷となり、1年間を棒に振るところであった。

ちなみに、もう一瓶のナポレオンについては、親戚の女性(静代ママ)が、「マヤ」というスナックバーを経営していたので、その店に贈呈した。

ところが、彼女がそれを店の棚に並べておいたら、客のなかに警察官がいて、棚に高級な洋酒があるのを見て、怪しみ、「不正なルートで入手したのでなないか?」と、嫌疑をかけられてしまったのである。

彼女は慌てて、私に電話をかけてきた。

「海外の土産だと、いくら説明しても信用してくれないのよ。悪いけど、パスポートを持って来て、お巡りさんに証言してくれない?」

1ドル=360円の固定為替相場の時代で、日本でまだ洋酒が珍しかった、半世紀余り前の“古き良き時代”」の話である。

リンパ腫の治療の話に戻るが、今回は、これまでの3回の治療にはなかった腎瘻(じんろう)造設という、もう一つ厄介な要素が加わった。これは、がんによって左の尿管が侵されて尿の流れが悪くなり、腎盂に尿が溜まる水腎症(すいじんしょう)を起こしていたためで、背中から腎盂にカテーテルを差し入れ、直接、尿を外に出す処置である。

水腎症については、すでに第2回目のリンパ腫発症のとき(2019年)、確認されていた。だが、その際は、私の体力が極度に低下していたため、水腎症の処置をしているよりも、すぐ化学療法を始めたほうが、リスクは少ないだろうとの判断であった。

幸い、2回目の「G-B療法」と呼ばれるガザイバとベンダムスチン(トレアキシン)の組み合わせによる化学療法の効果で、その後、水腎症も改善したようであった。

初回と2回目の発症は、いずれも、まず首の左側の同じ部位のリンパの腫れで確認され、そこから細胞を摘出して生体検査が行われた。

ところが、3回目の発症(2022年)の際は、首の腫れは現れなかった。その再発の診断は、CT検査による水腎症の確認が決め手であった。そのため、新たな化学療法を開始するにあたって、どうしても尿管の細胞の生体検査が必要となった。その検査用の細胞を採取する際、尿管の壁を傷つけて破れる恐れがあるので、たとえ破れても左の腎臓からの尿の流れを確保するため、尿管にステントを入れることになったのである。

この手術は、人生で初めて経験する全身麻酔で行われた。尿管が、がんに侵されて詰まった状態であったため、ステントの挿入には時間がかかったが、なんとか成功した。

そして、翌日、尿管を含め、数か所から細胞が採取され、それらの細胞の生体検査では、がんの悪性化は見られなかったので、予定されていた化学療法が実施されたのである。

この3回目の治療は、「2R療法」と呼ばれるもので、リツキサンとレブラミドの2種類の抗がん剤による化学療法で、前者は点滴投与で、後者は飲み薬である。この治療は、第1回目のR-CHOP(アールチョップ)と呼ばれる5種類の抗がん剤を使っての化学療法や、前述の第2回目のG-B療法と比べると、極めて副作用が少なく、脱毛や味覚障害、食欲不振などで苦しむこともなかった。

だが、その治療効果は長続きせず、わずか1年半で、今回の発症となったのである。

今回の入院にあたっては、“想定外”のいくつかのハプニングに見舞われた。

まず、昨年(2023年)の5月16日に入院したが、生体検査のためのCTを使っての細胞摘出の予約がしばらく満杯であることが判明し、一旦、退院して、約1週間の自宅待機を余儀なくされた。そして、5月24日に再入院して、翌日、生体検査用の細胞摘出処置をして、5月26日に一時退院し、18日間の自宅待機のあと、6月13日に再入院となったのである。

結局、当初のスケジュールより約1ヶ月も遅れたことになる

やっと、実質的な治療が始まると思っていたら、今度は、さらにショッキングな話が主治医の徳重淳二医師から伝えられた。

先の生体検査のためのCT撮影で、また左の腎臓に水腎症が確認されたのだ。つまり、1年半前に設置した尿管ステントは、もはや効果を発揮していないことが判明したのである。

そのため、前述の、より効果的な腎瘻の造設が必要になったのである。その造設手術が6月19日の夜に行われた。

これら二つの予期せぬ出来事は、その時は、ただ苛立たしさや落胆などのマイナス面しか感じられなかったが、今、振り返ると、それぞれ大きな意味があったように思う。

まず入院の遅延については、それによって、二つの貴重な体験をすることができた。

一つは、アメリカから来日したパメラ・ロバートソン女史との再会を果たすことができたことである。

彼女は、4章で触れたように、私が勤務していた法人の仏法指導者を心から尊敬していて、その年の6月6日の自身の八十歳の誕生日を、ある特別な意義を込めて日本で迎えたいと、5月末から6月初旬の来日を計画していたのである。

もし、私が当初のスケジュールどおりに入院して治療を受けていたら、彼女とは会えてなかっただろう。当初の入院日程をメールで伝えたとき、彼女は、病院まで行ってでも会いたいとの返事をくれたが、東大病院では、当時、コロナ対策が緩和されて面会は可能となっていたものの、面会時間は30分と決められていた。だから、たとえ彼女が病院まで来てくれても、ゆっくり話すことはできなかっただろう。

入院の遅延が幸いし、余裕をもって日程がとれ、私たちは、自宅待機中の6月1日に、拙宅で妻も交え、楽しく有意義な懇談ができた。2018年にサンフランシスコ郊外の彼女の自宅で会って以来、実に5年ぶりの再会を果たすことができたのである。

もう一つの経験は、がんの再発を発症したある一人の知人を、ささやかであるが、励ますことができたことである。

パメラとの再会と前後して、5月29日、友人の吉村晧一氏から長文のメールが入った。

吉村氏はドイツ語が極めて堪能で、二十数年間、ドイツの大手総合電器メーカーのシーメンス社に勤務したあと、先端技術をもつ日本のエルメック社の部長を務めた人である。

定年後、氏は友人の中村康佑氏と「環境未来研究会」という社団法人を起ち上げ、そこで常務理事を務め、私も数年間、一緒に活動した間柄であった。

貴兄が未曽有の闘いに勝利されますことを毎日ご祈念致しております。

一つ、たってのお願いがあります。私のシーメンス時代からの友人であり、同志でもある根本幸雄氏のことです。

彼は3年前に肺がんの摘出手術をして、その後、順調に推移していたのですが、先月の定期健診で再発が発見されました。まさかの再発と言われ、今度はかなりショックなようです。

医者からは「再発となると良くなることは望めないので、2年でも3年でも長く生きられるように頑張りましょう」などと言われ、余計にガックリ来ているようです。(中略)
私はこれまで大病を患った経験が無いために、癌の再発と言うものが如何に強い病魔であるかを実体験として知りません。もし貴兄の体調が許すのであれば、激励のメールを送ってやって戴ければと思い、このメールを書いております。

根本氏とは、私はそれほど親しい間柄ではなかったが、氏は「環境未来研究会」の勉強会や他の会合でも私の姿を見かけ、氏自身は私のことをよく知っているとのことであった。

このメールを受けとり、「果たして、今の自分に、メールで激励などができるだろうか」と、一瞬、たじろぐ心が頭をもたげた。だが、「友人からのたっての願いである。ともかく全力で対応しよう!」と、腹を決めた。

幸いにも、その数日前、長年の同志である山崎杉夫氏が、私の入院を知って、自宅まで見舞いに訪ねてくれ、これまで自分で切り抜いてきた機関紙・誌などからの病気に関する大量の記事を1セット、コピーして贈呈してくれていたのである。

そこで、その中から特に感銘した記事をスキャンしてメールで吉村氏に送って、根本氏に転送してくれるように依頼した。

そして翌日(30日)、根本氏に、直接、下記のメールを送付した。

吉村さんから、お話を伺い、このメールを書いております。(中略)

今回、治療の開始時期がずれ込んだ形になり、私としては自分の体力が持つか心配であったのですが、これも御仏意であると決め、さらに真剣に唱題に励んだ結果、皆さんからのお題目の応援も得て、むしろ体調は以前より安定した感じがしております。

少し前置きが長くなってしまいましたが、今朝、お題目をあげていて思いついた日蓮大聖人の御書の一節と、それに関する先生のご指導をお贈りします。

〇毒薬変じて薬となり、衆生変じて仏となる。故に妙法と申す。(「新池殿御消息」)

Just as poison turns into medicine, so do ordinary individuals change into Buddhas. Accordingly we call it the Wonderful Law. (The Writings of Nichiren Daishonin, p.969)

最愛の家族を亡くした門下へのお手紙である。妙法の功力は無量無辺だ。ゆえに、生老病死のどんな苦しみも、必ず変毒為薬できる。どんな宿命も転換し、絶対に共に成仏できる。悩みや悲しみを越え、今、踏み出す一歩こそ、皆を永遠の幸福境涯へ導く道程の出発なのだ。何があっても、題目を唱えぬいて、前へ!

こちらからも、さらにお題目を送ります。お互いに、勝利の姿でお会いできることを楽しみにしております。

それに対して、翌日(31日)、根本氏から吉村氏と私の二人に下記の返信が届いた。

はじめに、私の肺がん克服のためにあらゆる方面から本気でサポートを頂いている吉村さんに、衷心より感謝申し上げます。本当に有難うございます。

また、リンパ腫で闘病中の美山さんからの数々の心強いご指導を頂き、感謝の気持ちで一杯です。本当に有難うございます。(中略)

吉村さんからのご説明のとおり、私は肺ガンが再発し、5月10日入院し5月16日に化学治療を受け、本日退院しました。

今後3回の化学治療が予定されており、それに向かって闘っております。

今後の詳細につましては、追ってご報告させていただきます。

どうぞ、今後とも宜しくお願い致します。

それから1か月後の7月3日、吉村氏から下記のメールが入った。

その後、如何お過ごしですか?

昨夜、根本幸雄さんが霊山に旅立たれました。

先週、千葉県の病院にお見舞いに行ってきました。

話が弾んで、1時間半も、楽しく歓談してきました。

貴兄の激励が大変嬉しかったと語っていました。

七十八歳でした。

ありがとうございました。

厳しい夏が続きます。コロナも広がっています。どうかご自愛ください。

根本氏が死去された7月2日の二日前は、私の七十六歳の誕生日であった。私の治療は、R-ESHAP療法の第1コースが開始され、すでに数日が経過していた。

同氏の訃報は悲しく、残念でならなかったが、吉村氏をはじめ、ご家族やご友人の方々の真心とお題目に包まれ、きっと晴れやかな旅立ちであったに違いないと確信している。

もう一つの腎瘻の造設については、カテーテルの脱落の不安や尿を受けるバッグ(昼と夜の2種類)の扱いの煩わしさのほか、特にカテーテルの挿入部分の背中の痛みに悩まされた。

抗がん剤の影響で免疫力が低下しているためか、感染しやすい体質になっていて、カテーテルの入口部分の皮膚がすぐ炎症を起こし、周囲が赤く腫れたり、黄色く膿んでしまい、時には、動くたびにズキズキと痛むことがあった。

そんな時、身体の大きなハンディを背負いながら、信仰によって見事な勝利の人生を生き切り、3年前に八十歳で他界した次兄ヒロツグの記憶がよみがえった。

9章で触れたが、次兄は、小学校に入学する直前に脊髄カリエスを発症して、「痛い、痛い」と泣きながら幼い日々を過ごした。そのため、1年間、遅れての入学となった。

「あの辛さと比べれば、今、大人の私が経験している痛さなど、『九牛の一毛』に過ぎないのではないか!」

そう自分に言い聞かせると、不思議と痛みも和らぎ、「よし、これで今回の患者道の修行をさらに深いものにできるぞ」と、前向きに捉えられた。

考えてみれば、あの次兄の存在があり、幼いころからその生き様をそばで見てきたからこそ、私は、高校1年生のとき、次兄に勧められて、自分も驚くほど素直に、この日蓮仏法の信仰に入ることができた。

その法脈は、本作品の主人公ガンさんまでにも流れ、さらにガンさんを起点に、大きく広がった。そのことへの感謝の心を忘れてしまわないために、この腎瘻の煩わしさや痛みがあるのかもしれない。日々、そう感じながら過ごした闘病生活でもあった。

なお、「患者道」で、もう一つ思い出したことがある。それは姉のシゲが語ってくれた母トモエの話である。

1章および2章で詳しく述べたが、母は、平成4年(1992)の暮れ、七十九歳のとき、クモ膜下出血で倒れ、阪和記念病院で5年間、入院生活を送った。

ある日、シゲが母の病室にいるとき、一人の看護師が、目に涙を浮かべて、泣きながら入ってきた。また、婦長(看護師長)に厳しく叱られたようである。

母はその女性の肩をそっと抱きながら、彼女の話を聞いていた。

「きょうこそ、ここの仕事を辞めてしまおうと思うんだけど、トモちゃん(母)のところに来ると、なぜか気持ちが落ち着いて、ほっとするの。そして、やっぱり、トモちゃんのために、もうしばらく頑張ろうと、元気が出てくるの。だから、トモちゃん、この仕事が続けられるように、これからも私を励ましてね!」

母は、決して特別な才能や技能の持ち主ではなかったが、努力家で、辛抱強かった。

とりわけ、人の喜びを自身の喜びとする精神が旺盛で、そのために自分のできることがあれば、なんでも進んで行動に移した。きっと、その看護師は、日ごろの仕事のなかで、そんな母の心根と人柄を感じ取っていたのだろう。

そばにいるだけで、心が折れそうになった若い看護師をそこまで元気にできたとすれば、母の「患者道」は、当時すでに“名人”の域に達していたのではないか、と今にして思うのである。

幸い、私は、昨年(2023年)11月14日(火)、無事、退院できた。だが、また予期せぬドラマが待っていた。

退院して6日後の11月20(月)、CT検査を受けた。そして翌週の月曜日(11月27日)、外来診察で、主治医の徳重医師からその検査結果が伝えられた。

だが、それは厳しいものであった。腫瘍は、ほとんど縮小していなかったのである。徳重医師は、その場ですぐ、より精密なPET検査を、3日後の11月30日に受ける手配をしてくれた。

そのあと、同医師は、少し困惑気味に、こう付け加えた。「もしPET検査で同じ結果であれば、次の治療法を考えなければなりません。でも、今回のCAR-T療法以上のものは、現在ではないし…」

翌週の月曜日(12月4日)、私は、覚悟して診察に臨んだ。診察室に入ると徳重医師は、机上のパソコン画面に目をやり、PET撮影技師からのレポートを読んでいた。そして突然、「なに!」と、驚きの声を上げた。

レポートには、「胸などに炎症箇所はあるものの、がん細胞はすべて消えている」と書かれていたのである。先のCT検査で映っていたのは、死滅したがん細胞だったようだ。今回の治療は成功だったのだ。

もちろん、濾胞性リンパ腫は根治が難しく、再発を繰り返す病気であるから、この治療が最終的に成功したかどうかは、これから数年間の経過を見なければならない。

だが、がん細胞がきれいに消え、こうして「後書き」を書けるまでに体力が回復したのも、きっと宇宙のどこかで、ガンさんや母、次兄たちが、この世やあの世の善意の人たちと一緒に、祈り、応援してくれているからに違いない、と私には思えるのである。

2024年8月

(ガンさんの七十七歳の誕生月に)

 

[お詫び]

本書の10章「患者道(後書き)」の中で、記述の誤りがありましたので訂正します。

 

誤:それから1か月後の7月1日、吉村氏から下記のメールが入った。(P.199)

正:それから1か月後の7月3日、吉村氏から下記のメールが入った。

 

誤:根本氏が死去された6月30日は、奇しくも私の七十六歳の誕生日であった。(p.200)

正:根本氏が死去された7月2日の二日前は、私の七十六歳の誕生日であった。

 

故・根本幸雄様ならびに関係者の方々に謹んでお詫び申し上げます。

お気軽にお問い合わせください。 TEL 03 - 3913 - 8811 受付時間 9:00 - 17:30 (土・日・祝日除く)

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